鈴木大拙

仏教学者

明治3年(1870)、金沢市生まれ。東京帝国大学哲学科選科入学、在学中に円覚寺の今北洪川に参禅、洪川没後、釈宗演に師事。
明治26年(1893)、シカゴで開催された万国宗教会議に釈宗演とともに参加。釈宗演のスピーチの英文は貞太郎が作成したもので、これは米国の雑誌に掲載され、鈴木大拙の英文が欧米人の目にふれた最初のものである。
明治27年(1894)、釈宗演から「大拙」の号を授かる。
明治30年(1897)から十余年間、東洋学者ポール・ケーラスが経営する出版社オープン・コート社に勤め、「大乗起信論」を英訳して学界の注目を集める。それ以降も英語で著書を多く出版し、仏教、禅、東洋思想を世界に広くしらしめ、今日の海外における禅文化発展の礎を築いた。
89歳をこえた晩年は、東慶寺裏山に設立した松ヶ岡文庫にて、95歳で亡くなるまで研究生活を続ける。

松ヶ岡文庫と鈴木大拙

「松ヶ岡文庫」の名は釈宗演の「賊後弓」と題した遺言書の中に出てくる。
釈宗演は松ヶ岡文庫の設立費として当時の金額で3,000円を用意してあった。大拙の釈宗演宛ての書簡の中に

「欧米にては大抵の都市に大なる書籍館の設けあれば、時の進歩に後るの愚少なけれども、我日本に在りては東京にてすら完全の公共書庫あることなし、されば少し学問に志あるものは余財を抛ちて近刊の著書を参考に供せざるべからず」

とある。 大正12年の大震災で東慶寺伽藍はことごとく倒壊し、文庫設立どころではなくなったが、昭和16年、井上禅定が東慶寺住職となったある日、大拙と松ヶ岡文庫建設の話が出て、場所は東慶寺裏山の中腹、畑と小松の林のあるあたりを寺で提供、宅地造成、建築費用は安宅弥吉氏が受け持ち、図書は大拙所蔵のものを収蔵ということではじまった。

〈 釈 宗演