開山 覚山志道尼(北条時宗公夫人)
開基 北条貞時
東慶寺は鎌倉時代の弘安8年(1285)に開創された臨済宗円覚寺派の寺院です。女性から離婚できなかった封建時代に、当寺に駆け込めば離縁ができる女人救済の寺として明治に至るまでの600年間、縁切りの寺法を引き継いできました。
後醍醐天皇皇女が護良親王の菩提を弔うため五世住職となり、御所寺、松ヶ岡御所とも呼ばれ、鎌倉尼五山の第二位に列せられる格式の高い尼寺になりました。江戸時代初期には豊臣秀頼の息女が千姫の養女として命を助けられ、東慶寺に入寺。のちに二十世天秀尼となり、創建以来の栄華を極めました。
明治4年(1871)、廃仏毀釈の影響により縁切りの寺法は廃止となり、明治35年(1902)に尼寺の歴史も幕を閉じました。
明治38年(1905)、建長寺・円覚寺両派管長 釈宗演禅師が入寺し、荒廃した当寺を復興し、中興開山となりました。師の高徳ゆえ、門下には政財界人、哲学者、文化人が多く、禅を世界に広めた鈴木大拙もその一人です。大拙はのちに当寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立し、禅文化発展の世界的拠点となりました。
かつては男子禁制の寺として、寺への出入りが厳しく取りしまわれていましたが、戦後は花の寺として境内を整備し、現在では多くの参拝客を迎え入れるようになりました。
1285弘安八年 | 東慶寺開創 開山 覚山志道尼、開基 北条貞時 |
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1332元弘二年 | 四世了道尼、梵鐘を作る (現在の梵鐘は材木座補陀洛寺のもので、東慶寺の梵鐘は、韮山・本立寺にある) |
1333元弘三年 | 1333 元弘三年 後醍醐天皇皇女が入寺、五世用堂尼となる |
1515永正十二年 | 北条氏綱、鎌倉三か寺(建長・円覚・東慶の各寺)の諸公役を免除する |
1590天正十八年 | 豊臣秀吉、北条氏を小田原に滅ぼし、会津に向かう途中鎌倉に寄り、 東慶寺などの所領を安堵する |
1615元和元年 | 大坂落城、豊臣秀頼は母淀君と自害。秀頼の息国松は京都六条河原で処刑、息女天秀尼(のち二十世)は家康の命により東慶寺に送られ、法清尼の附弟となる |
1616元和二年 | 平戸のイギリス商館長リチャード・コックス、江戸から鎌倉を訪れて門前を道り、 東慶寺のことを書き残す |
1634寛永十一年 | 仏殿が再建される。また、前年に自刃した徳川家光の弟駿河大納言忠長の御殿が東慶寺に移される |
1642寛永十九年 | 天秀尼、父秀頼菩提のため、雲板を鋳造する |
1719享保四年 | 徹宗尼、永山十三回忌に泰平殿を建立し、旧太平寺観音像を祀る |
1736元文元年 | 徹宗尼(蔭凉軒七世)示寂 |
1738元文三年 | 東慶寺に現存する最古の離縁証文が書かれた |
1745延享二年 | 東慶寺役人村上嘉太夫が「寺例書」に寺法の詳細を記す |
1813文化十年 | 門前の火災で外門、松岡役所が類焼。役所は安政二年に再建 |
1866慶応二年 | この年の駈入り女人は四二名、寺法在寺四名、逗留一名の全部で四七名を数える |
1871明治四年 | 明治政府、寺領を没収し、縁切寺法を禁ずる |
1903明治三十六年 | 古川堯道、住職(男僧一世)となる |
1905明治三十八年 | 建長・円覚寺両派管長の釈宗演、東慶寺に遷住(男僧二世) |
1919大正八年 | 釈宗演、示寂。東慶寺中興開山の号を贈られる。佐藤禅忠、住職(男僧三世)となる |
1923大正十二年 | 関東大震災により、諸堂倒壊。元禄以来の書留や縁切文書等も多数消滅 |
1935昭和十年 | 佐藤禅忠、示寂。朝比奈宗源、兼務住職となる。本堂再建。 |
1941昭和十六年 | 井上禅定、住職(男僧四世)となる。鈴木大拙、東慶寺裏山に「松ヶ岡文庫」を設立する |
1978昭和五十三年 | 松岡宝蔵を方丈跡に新築し、寺蔵の史料などを保管、展覧に供する |
1981昭和五十六年 | 井上正道、住職(男僧五世)となる。 |
2005平成十七年 | 開山七百年遠諱・授戒会厳修 |
2013平成二十五年 | 井上陽司、住職(男僧六世)となる |