覚山尼

東慶寺開山 北条時宗公夫人

夫・北条時宗公が弘安7年(1284)に34歳の若さで亡くなる直前、夫婦はそろって、円覚寺開山・無学祖元禅師について出家し、夫人は潮音院殿覚山志道と安名された。 覚山志道尼は時宗公の死の翌年、弘安8年(1285)に東慶寺を開創。 当寺に駆け込めば離縁できる縁切りの寺法を定める。

東慶寺所蔵『旧記之抜書』に

「自分は出家の身ながら、女のことであるから、利益の種、世のため人のためになることもあまりできないが、女というものは不法の夫に身をまかせ、つかえるのがあたりまえとされているので、時によると女のせまい心から、ふとよこしまの思い立ちで自殺などするものがって、ふびんであるから、そのような者は三年間当寺へ召抱え、何卒縁切りして身軽になれる寺法を始め、貞時から勅許を仰いで、この縁切寺法が公許され、五世用堂尼は縁切女三ヶ年辛苦な寺勤めはふびんと出入三年二十四ヶ月とされた」

とある。

寺例書では、開山以来書かれている縁切り寺法だが、現存する文書でその証拠となるものは、元文3年(1738)の離縁証文が最も古いとされている。

用堂尼 〉